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2010年09月24日

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

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平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学」を再び読んだ。

この本はアメリカで1983年に出版、日本では1996年に翻訳出版され、わずか1年のあいだに35刷となった程、ベストセラーとなった心理学の本で、人間の心の闇「邪悪」な部分にスポットを当てたものだ。1996年といえば、日本のバブルがはじけて失われた10年と呼ばれた時期の真っただ中である。金品を所有することが心のよりどころであったバブル時代を経て人々の心が荒廃し、やがて精神に光を当てようとしていた時期であった。そんな頃であったから、ベストセラーとなったのもうなずける。

以前、図書館で借りて読んだのだが、途中まで読んだところで貸し出し期限がきてしまって返却したので、読破していなかった。なので、再び図書館で借りて読んだ。

なぜ、いまこの本を手に取って読むことにしたのかというと、人間というのはなぜこんなにも自分の都合のよい言動や他人を傷つける言動をするのかということを、ここ数ヶ月に考えることが多くなったからだ。それは新聞の三面記事を賑わす事件や政治経済だけではなく、自分の周囲においても感じることがあるからである。

本のタイトルは「平気でうそをつく人たち」だが、サブタイトルに「虚偽と邪悪の心理学」と付けられている。どちらかというと、「平気でうそつく人」を述べたのではなく、邪悪な心をもって周囲や自分さえも欺く人の心の闇にスポットを当てている。

この本の書評を書くべきかどうか、正直迷った。それは人の心の闇の部分、この本の言うところの「邪悪さ」を論じたものだからである。この本の「はじめに」の部分には「取り扱いに注意」とある。そして、著者自らが「この本は危険な本である」と述べている。治療効果もしくはいやしの効果がある一方、読むことによって苦痛を受けたり、悪用すれば他人を傷つけかねないからである。この本に登場する「邪悪な人たち」を周囲に当てはめれば、容易にその人間を邪悪だと決めつけてしまう危険な判断ができてしまう。しかし、悪を直視できなければ、人間の悪をいやすことはできない。自らが悪に引き込まれることを防ぐことはできない。悪を直視するということはけっして気持ちのよいことではないが、それを知り、把握し、判断し、どのように接すべきかを論じる必要があると、本書の言うとおり感じたからである。

本書の著者は心理療法家であり、内容は自分自身の臨床体験に基づいている。臨床対象として著者のもとに連れて来られた患者たちを「邪悪な人間」として述べているが、ここでいう邪悪とは殺人や窃盗などの犯罪を犯す悪人のことを指すのではなく、ごく普通の人たちのとる言動のことだ。

「邪悪」というには大げさな気もするが、本書によると邪悪な人は次のような傾向をもっているそうだ。
・邪悪な人間は、自分の欠陥を認めることを拒否し、自分自身の邪悪性を他人に投影しようとする。
・邪悪な人間は、長期にわたってその影響下に置かれている人間を汚染し、または破滅させる。
・邪悪な人間が自分から進んで心理療法の患者となることはほぼ皆無と言える。
・邪悪な人間は、自分の心に光を当てられることをなんとしても避けようとする。
・邪悪な人間は、自分自身を照らし出す光や自分の良心の声から永遠に逃れ続けようとする。
・邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否する。
・邪悪な人間は、自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する。
・邪悪な人間は、他人をスケープゴートにする。つまり、他人に罪を転嫁する。自己像を守るために他人を犠牲にする。
・邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じてこんでいるために、自分の悪を否定するために他人を悪とみなして自分の悪を世の中(他人)に投影する。
・邪悪な人間は、自責の念、自分の罪、不当性、欠陥に対する苦痛を伴った認識に苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。
・邪悪な人間は、自分自身の弱さや欠陥を認めることができないので、外見を装う。自分が絶えず物事を支配しているかのように、自分自身に対して装う。
・邪悪な人間は、完全性という自己像を守ることに熱中し、道徳的清廉性という外見を維持しようと絶えず務める。
・邪悪な人間は、社会的規範というものに対して、他人が自分をどう思うかということに鋭い感覚を持っている。
・邪悪な人間は、自分自身の罪悪や不完全性から逃れようと必死の努力をし、自分の邪悪性の証拠となるものを消し去ることに、絶えず専念する。
・邪悪な人間は、ご立派な対面や世間体を獲得し維持するために人並み以上に努力する。地位や威信を得るためであれば、大きな困難にも甘んじ、熱意をもって困難に取り組むことすらある。
・邪悪な人間は、見せかけの姿が破れ、世間や自分自身に自分がさらけ出されるのを恐れている。
・邪悪な人間は、自分自身の邪悪性に面と向かうことを恐れる。
・邪悪な人間は、つねに自分たちの動機をうそで覆う。
・邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に最も共通して見られることは、愛を装うことである。
・邪悪な人間が自分の力を乱用する相手は自分よりも弱い人間であり、何らかの支配力を持っている。
※上で挙げた事柄には意味が重複しているものもあるが、本文で挙げられている邪悪性について抽出してみた。


上記で挙げた事柄は、他人やあるいは自分にも当てはまることがあるかも知れないだろう。ここが先に挙げた「この本に登場する"邪悪な人たち"を周囲に当てはめれば、容易にその人間を邪悪だと決めつけてしまう危険な判断ができてしまう。」ということである。

そして、果たしてそれだけで邪悪性と呼んでよいものだろうかという疑問が湧く。ここに挙げられた邪悪性の持つ傾向に当てはまるからといって、その人物が邪悪な人間であるというレッテルを貼ってよいものなのか。ここで挙げられているような人物などは世の中にいくらでも存在している。会うたびに人をからかったり相手が不快になる言葉を投げかける人物を邪悪な人間と呼んでよいものか。よかれと思って他人にした施しを反故にするかのごとく、施しをした人を傷つける発言をして仇で返す人物を邪悪な人間であると呼んでよいものだろうか。非を責められても省みるそぶりを見せながら、別のことを持ちだして相手を攻撃(スケープゴート)したり、本当は自分にも非があることがわかっているのに自分の非を棚に上げ、自分の都合のいいように解釈して、自分のほうが被害者だと別のことを持ちだして相手を攻撃(スケープゴート)する人などはよく見かけることである。頭にふと湧いた言葉をすぐに相手に投げかける特性のある人物がいて、その言葉が相手を傷つける言葉であったとしたら、その人を邪悪な人間であると決めつけてよいだろうか。約束事をいつも守らない人のことを邪悪な人間と呼んでよいものか。

人間は完全な生き物ではない。たしかに、わざわざ近寄ってきて言いがかりや因縁をつけ、憎まれ口を叩く人物や明確な悪意をもって邪悪性を継続して発揮する悪に染まりきった人物が存在していることは事実であるが、人の一面だけを見て判断するのは危険なことである。さらに言うと、邪悪な人間だと決める行為そのものが邪悪であるとも言えてしまう。

しかしながら、本当に邪悪な人間は上記の事例のように、自分には欠点がないと深く信じており、自分に光が当てられるのを恐れ、自分の罪悪を認めることを拒否するため、自己を内省することがない。従って、こうしたことを考えること、こうした本を読み、自己批判の精神をもって内省する人であるならば、真の邪悪な人間ではないし、邪悪に陥ったとしても救い出すことはできる。

本書によると、邪悪性とは、自分の持つナルシシズムや怠惰の精神から発生していくという。
・邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである。
・邪悪性とは、罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようという気持ちから生じる。
そして、ナルシシズムは他人をスケープゴートにする動機になる。他人にたいする共感や他人を尊重する気持ちからくる抑制力を奪うという。

本書では複数の事例が取り上げられている。ある少年が窃盗事件をおこし、著者が少年のケアをするために心理療法を担当することとなった。しかし、話を聞いていくうちに、どうやら問題は少年のほうにあるのではなく、その両親にあるといういうことがわかった。その両親は少年へ贈ったクリスマスプレゼントとして、少年の兄が自殺に使った拳銃を贈っていたのである。この事例は両親が少年に兄が自殺に使った拳銃を与えることで、「お前も兄のように銃で自殺しろ」と無言のメッセージを与えたという、明確な邪悪性を示すものであるが、その他にも陰険な邪悪性が見え隠れする事例もある。

邪悪性の最も典型的な犠牲者は子供である。子は親から絶対的な支配を強いられる存在である。世間を騒がす児童虐待などは明確な邪悪であるが、子供の精神を破壊しようとする言動を親がすることもある。本書の事例だと、希望するスクールにわざと入学させなかったり、成績優秀である褒美として学校から与えられた研修旅行に行かせないように仕向けるなど、ことあるごとに子供の希望を潰すことをする。この事例は上で挙げた邪悪性がピッタリと当てはまる。
・邪悪な人間が自分の力を乱用する相手は自分よりも弱い人間であり、何らかの支配力を持っている。
・邪悪な人間は、長期にわたってその影響下に置かれている人間を汚染し、または破滅させる。


こうした邪悪な精神を持つ親に長年接してきた子供は、トラウマを抱え、大人になったときに、他人や自分の子供に、その親がしてきたことと同じ邪悪さを発揮することが多いという。邪悪さが世代間で引き継がれていくのである。


その他、集団における邪悪さも取り上げている。ベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件である。南ベトナムで、いわゆるベトコン兵士と戦っていたアメリカの一小隊が、ベトコンではない500〜600人の住民を銃殺したという事件である。そしてその事件は隠蔽された。

ここで問題とされているのは、敵の兵士ではない住民を殺したことだけではなく、隠蔽されたこと、さらには、当時のアメリカ国家がベトナムでの戦争に参入した欺瞞である。アメリカ国民はベトナム戦争が泥沼化するまで、ベトナム戦争を関知せず知らないふりをした。隠蔽は集団の大きな虚偽であり、嘘というのは悪の兆候のひとつであると同時にその原因の一つでもあるという。「嘘つきは泥棒の始まり」と言う言葉があるが、「嘘つきは邪悪の始まり」なのだ。

本書にも書かれているとおり、
集団凝集性を強化する最善の方法が、外部の敵にたいする憎しみを助長することだ、とは広く知られていることである。外集団の欠点や「罪」に関心を向けることによって、グループ内の欠陥は容易に、なんの痛みもなく看過される。
代表的なのが、第二次世界大戦でドイツで行われたホロコーストであり、ナチスはユダヤ人をスケープゴートにした。戦争の当事者は潔白を装い、まやかしの口実をでっちあげ、それを信じ込み、自分たちこそ犠牲者なのだと考える。

こうした事例は一般社会にも見られる。学校や職場でのいじめは集団における邪悪であり、自分たちとは異質な者を迫害しようというスケープゴート行為である。そしてこれは小集団においても邪悪さを見ることができる。井戸端会議や職場の給湯室、メールや携帯電話を用いた、人の噂話から悪口に発展する事例や、口裏を合わせて自分たちの都合のいいように解釈して自分たちの非を隠蔽しようとし、自分たちの正当性をまやかしの口実をでっちあげることによって信じ込み、自分たちこそ被害者であるとうそぶいて他人に責任転嫁(スケープゴート)する行為や、表向きはにこやかな対応をしながら、裏ではSNSやメール、メッセンジャーなどのツールを使い、クローズドな空間で悪口を言い合い、他人の悪口で結束を固めるグループの存在などだ。また、「あの人がこんなこと言ってる。あの人どう思う?」と相談に見せかけて他人を批判する形で悪口を言い、同意をとりつけて悪口で結束を固めようとする人物も時折散見される。ここでも他人に罪を転嫁しようとする、本書の言うところの集団の邪悪性を見ることができる。

本書によると、「集団のなかの個人の役割が専門化しているときは、個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁されがち」だという。「個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化され、良心が存在しないも同然の状態になる」という。「不可避的に良心を欠いた邪悪なものになる可能性がある」という。

これを避けるためには自分自身が全体の行動に直接責任を持つ以外に道はないという。そして自分たちが一番といったナルシシズムや他人任せにして物事を考えない怠惰を根絶させることであるという。しかし、それは容易な道ではなく、従って邪悪さを発揮した事件や争いは一般社会や国家レベルでも起こりうることである。


邪悪性は、自分の持つナルシシズムや怠情の精神から発生していくと上記で述べたが、本書ではこれに加えてストレスを受けているときに発するとも述べている。私個人的には、以前から本書で言うところの邪悪性を持つ人というのはコンプレックスの塊であり、資産、学歴、容姿、職業、能力などにおいて何らかのコンプレックスを持つが故に、それを一時的でも覆い隠すために他人を攻撃するのだと考えていたが、コンプレックスというストレスを持つがために悪に走るのだということが氷解でき、その認識は間違っていなかったことがわかった。


人間は不完全な生き物なので、うっかりと「邪悪」とみなされることをしてしまうこともあろう。神のような人格者など存在しない。では、どうすれば邪悪な人たちを正しく導き、自分自身が邪悪な人にならないようにすればよいのか。

邪悪なものに出会ったときにとるべき最良の道は、それを避けることであると本書は述べている。先の事例で、自殺した兄が持っていた拳銃を両親からクリスマスプレゼントとして渡された少年も、生みの親、育ての親である両親から離れるしかないというのは不憫ではあるが、少年を守るためには仕方がないことなのかもしれない。

これは、邪悪な人間は下記に示す傾向により、自らに光を当てられることを嫌うため、治癒することができないからだ。
・邪悪な人間が自分から進んで心理療法の患者となることはほぼ皆無と言える。
・邪悪な人間は、自分の心に光を当てられることをなんとしても避けようとする。
・邪悪な人間は、自分自身を照らし出す光や自分の良心の声から永遠に逃れ続けようとする。
・邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否する。
・邪悪な人間は、自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する。


最近観た映画に、ブラット・ピット主演「イングロリアス・バスターズ」という映画がある。
ingloriousbasterds.gif

この映画は第二次世界大戦を舞台にしたもので、ホロコーストを行うナチスに対抗する手段として連合軍で組織された特殊部隊「バスターズ」を描いたものだ。ここでは、バスターズはナチス兵を残虐な手段で殺害する部隊として描かれている。これはユダヤ人迫害をする邪悪な存在の象徴として描かれるナチスに対抗するには、それを上回る邪悪さをもって戦うしかないということを意味している。さらにこの映画では、バスターズが捕えたナチス兵を1名だけヒトラーのもとに解放するときや、捕虜として捕えたナチス幹部の顔の額にナチスの紋章「カギ十字」をナイフで刻みこむシーンがある。これは、邪悪な存在であるナチスの側についた人間は、戦争が終わったとしても邪悪な存在であり、ナチスの軍服を脱いでしまえばその人間がかつて邪悪なナチス側の人間であったということの判別がつかないために行うのがその理由だ。

つまり、邪悪な人間は自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否し、自分に光を当てられることを避けようとするため、治癒することがない。従って、対抗手段としてそれを超える邪悪なもので対抗するか、邪悪な人間であることを刻印して、正常な人間と区別するしかないということである。しかし、邪悪に邪悪で対抗するということは、自らが邪悪な存在となるということなので、この映画のバスターズのように行動することは現実的には危険な行為である。

それでは、邪悪な人を正しい道に導くにはどうすればよいのか。それは専門家に任せるしかない。邪悪な人と対峙するには心が強くなくてはいけない。なぜならば、自らもその邪悪(ダークサイド)に引き込まれるおそれがあるからだ。本書では邪悪な人には愛をもって接するべきと説いている。これはキリスト教義的な「裁くなかれ、汝自身が裁かれんがために」という言葉に象徴される。


次に、自分自身が邪悪な人とならないためにはどうすればよいのか。それは自己批判の姿勢を絶えず維持しつづけることである。自分は何をしようとしたのか、何をしたのか、それは正しいことなのか、どの方向に進むべきかを自分で常に考えて決めることである。自分に怠惰はないか、ナルシシズムはないかと自省して浄化させることである。この過程において、自分に過ちがあったと正面から受け止める必要があり、それは苦痛を伴うことかも知れないが、それは飛躍のきっかけでもある。



本書の最後には、
神秘主義的な言葉をもって答える以外に答え方を知らない。私に言えることは、そこには犠牲者を勝利者にするある神秘的な秘術がある、ということだけである。犠牲者が勝利者になるといったことが、どのように起こるのか私は知らない。しかし、それが起こることだけは知っている。
と述べているのだが、その言葉だけでは救いがないと感じた。

科学的に邪悪性を解き明かしてきた論述の最後が、「神秘的な秘術がある」というのでは、あまりにも漠然としすぎる。いや、漠然としすぎるというよりは、結局のところ、対抗のしようがないということなのだ。

なぜならば、後述するように、人間の邪悪性というものは人間の本性だからだ。本性を抑え込もうとするのは並大抵のことでは達成しない。

以前読んだのは5年くらい前で内容はおぼろげにしか覚えていなかったので、最初から読み進めたが、戦慄を再び感じてしまった。この心理療法士も仕事とはいえ、こうした人たちと対峙するのは強靭な精神力を持ち合わせなくてはならなかっただろう。

これを読んで改めて認識したことは、自己批判の精神を常に持っていなければ、自らも邪悪なダークサイドに引き込まれる可能性があるということだ。

Live(生きる)を反対からつづるとEvil(悪)となる。生きることとは、いつも悪と隣り合わせにある。有史以来、人類はお互いを迫害し、殺し合い、奪い合ってきた。人類の歴史は争いの歴史であり、邪悪さは本能とも言えるものなのかも知れない。そう考えれば、他人にスケープゴート(責任転嫁)したり、自分たちに都合のよいことばかり言ったり、他人を傷つけ不快にさせる言動をするのは、有史以来の人間のDNAに刷り込まれ、引き継がれた人間の本性なのだということがわかる。

「悪いことをしてはいけません」と人に諭したり、道徳を説く言葉や啓発がもてはやされたり、法律とルールを設け、罰則という戒めで邪悪な行動を抑制させようとするのは、本能である邪悪さによって繰り返されてきた人類の悲劇を抑え込むための、人間の必死の努力なのかも知れない。

その抑制ができない人が、いとも簡単に人間の本性である、本書でいうところの邪悪性を露呈させる。

ここ数ヶ月、ずっと考え続けてきたこと 「人間というのはなぜこんなにも自分の都合のよい言動や他人を傷つける言動をするのか」 の答えが、ようやく見えてきた。
 
 

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3 興味深いですが疑問もありました。
2 暑気払いに最適?
3 うーーーーーん。やりきれない
5 心理職にあこがれる人必読の本
4 タイトルと中身の相関関係がわかりづらかった

 

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posted by しん at 08:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 はてなブックマーク - 平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学
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